『・・・ごめん、白亜』
 
悲しい声が聞こえた気がした。
 
『私』は今、物凄く悲しんでいる。
 
でも、それがどうしてなのか・・・解らない。
 
右も左も、生も死も、此処が何処なのかも・・・私が誰なのかさえ、私はどうでもよくなっていた。
 
何物も、戻らないあの人の変わりにはなりはしないんだから。
 
『――――バイバイ』
 
貴方を追う事の出来ない私を、その声は穏やかすぎる音でもって、耳元を通り過ぎていった。
 
            ☆☆☆
 
夢から覚めると、そこは真っ白い病室でした。
 
私は静かに周りを見渡し、見慣れつつある病院の風景をぼんやりと眺めます。
 
コンコン
 
不意に聞こえたノック音に「はい」と、私は声を発しました。
 
ノックされたドアから顔を出したのは、オレンジ色の髪をしたお兄さんでした。
 
「白亜、調子はどう?」
 
「はい、大丈夫です。・・・えーと・・・」
 
「皐月だよ。橙 皐月。君の従兄弟の」
 
名前を言いよどんだ私に、皐月君は苦笑した。
 
なるべく軽くしようとしているのでしょうが、口元が引き攣っているので・・・相手が私の言葉にショックを受けたのは何となく解ってしまいました。
 
「すみません。 色んな人の名前とか覚えるの、難しくて・・・」
 
申し訳なくなって俯くと、「そっか」と小さく掠れた声で返されました。
 
「まあ、仕方ないね・・・。無理はすんなよ?」
 
「有難う・・・ございます」
 
私の頭に遠慮がちに手を乗せた皐月君を見上げて、私は取り敢えずお礼を言いました。
 
心配をかけてしまっているのは解っています。
 
だけど私は、昔の『私』を知る術を持たない。
 
気がついたら病院で、目が覚めた後色々検査のようなことをしてもらった後で『記憶喪失』だと判定されました。
 
実際そのようなものだと思います。
 
私は、私の事を知りません。
 
それに・・・私は昔の私自身の記憶をこれから生涯、取り戻すことの出来ないような気がしていました。
 
皐月君は『多分、ショックが強すぎたんだろうな』と悲しげに呟いて、それっきり・・・記憶を失ったかも知れない経緯については口を閉ざしてしまいました。
 
「・・・もっと砕けて喋っても平気だよ?」
 
困ったように、少し寂しそうな顔をした皐月君に、私はまた俯きます。
 
どうしてだろう、私は皐月君に悲しい顔ばかりさせてしまっている気がします。
 
「・・・うん。・・・あの、ね・・・皐月君」
 
「んー?」
 
優しげな声と共に聞き返しながら、皐月君はベッド脇の椅子に腰を落としました。
 
その様子を見てから、私は扉の方に視線を向けました。
 
「・・・誰か、他に此処来てた?」
 
問いかけると、皐月君は怪訝そうな顔になりました。
 
この反応で、粗方解った気がします。
 
「いや、多分誰も・・・?」
 
「そう・・・」
 
「何でそう思うんだ?」
 
「んー・・・多分夢だと思うんだけど・・・誰かが・・・私に喋ってた気がして」
 
ぼんやりと巡った夢の中で、その台詞だけを鮮明に覚えています。
 
まるで、それだけは忘れることを許さないとでも・・・昔の私が言って言うようでした。
 
「・・・?」
 
疑問符を浮かべて首を傾げる皐月君に、私は視線を落としたままで口を開きました。
 
「『・・・ごめん、白亜。・・・バイバイ』、って・・・」
 
そうです。
 
あの声だけが、私の頭から離れないのです。
 
こびり付いて、離れてくれないのです。
 
「―――――」
 
沈黙した皐月君に目を向けようとしたのですが、私は別の物に気を取られてしまいました。
 
窓から見える木の枝で休んでいるらしい、黒い影に。
 
「あ、猫・・・」
 
呟いて、猫の姿をまじまじと見つめます。
 
心なしか猫も、私の事を見ているような気がしました。
 
恐らく気のせいでしょうが、何処と無く泣きたくなるような、愛おしさすら感じました。
 
「・・・あれ?」
 
そんな事を考えていた所為なのか、私の目からは涙が落ちていました。
 
横で皐月君が吃驚しています。
 
「白亜?」
 
「・・・何で、涙が出てくるんだろう・・・」
 
「・・・」
 
ボロボロと涙が零れてくる間も、私は黒猫から視線を逸らすことは出来ません。
 
黒猫も、私をじーっと見つめてきます。
 
きっと傍から見たら、奇妙な構図なのではないかと思います。
 
「何でか、解る? 皐月君」
 
「・・・ごめん、解んないや」
 
「そっか・・・」
 
皐月君の声には色々な感情が含まれているような気がしましたが、それを聞く事は出来ませんでした。
 
きっと、教えてくれないでしょう。
 
そうしている内に、黒猫はゆっくりした動作で立ち上がり、私に背中を向けました。
 
「・・・バイバイ、猫さん」
 
その背中に向かって、自分でも知覚できない沢山の感情を込めて呟きました。
 
黒猫はそのまま木から飛び降りて、私の視界から消えてしまいました。
 
その瞬間、私の耳に届いた声は・・・夢の中のものなのか、どうなのか・・・それすら私は解らないのです。
 
優しく、穏やかな声で、ただ一言。
 
 
 
『さよなら』、と。
 
 
 

BGM@聲
心臓が痛い。